HISTORY,  TOP

”夭折した長距離ランナー” 円谷幸吉

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。

敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。

克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。

巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅうございました。

喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。

幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。

正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。

幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。

父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。

幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」

「出典 長距離ランナーの遺書」(敗れざる者たち 収録)

 これは、27歳という年齢で自殺した1964年の東京オリンピック、男子マラソンの銅メダリストである円谷幸吉の遺書である。私がこの遺書を初めて読んだ時、哀切や長距離ランナーの孤独といったものだけでなく、何か一種のまじないのようなものを感じた。ルポルタージュ「長距離ランナーの遺書」の著者、沢木耕太郎も同じようなことを書いていた。沢木はそれに加えて、円谷の生まれたいわゆる”農村”の奥深くに眠っている土俗の魂が秘められているのではないかと書いている。今回なぜこの遺書を冒頭に掲載したかというと、私は、この遺書には円谷幸吉という人物の人柄が最もよく現れていると思ったからである。東京オリンピックで銅メダルという輝かしい成績を残しながら、若くして自殺した円谷幸吉について紹介する。

1. 前半生〜自衛隊入隊

 円谷幸吉は、1940年5月13日に福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)で、7人兄弟の末子として生まれた。円谷幸吉の父親は、とても厳格な教育(土着的、農村的倫理)を子供達に授けた。例えば、息子たちを全員裸にし、庭に軍隊式の号令の訓練をよくやらせたり、剣道の寒稽古に必ず子供達と一緒に参加するといった具合だ。このような厳格な教育に子供達の中で最もよく答えたが、幸吉だった。幸吉が小学校4年の時、運動会の徒競走で先頭を走っていた。走っている途中、後ろから来る連中が気になったか無意識に振り返った。1着でゴールインしたが、運動会の後で見物に来ていた父親に酷く叱られた。

「男が一度こうと決めて走り出した以上、どんなことがあっても後を振り返るなんてことを、するじゃねえ」「出典 長距離ランナーの遺書」(敗れざる者たち 収録)

このエピソードは、幸吉が後に東京オリンピックで最後のトラックでイギリスのベイジル・ヒートリーと2着争いのデットヒートを演じる時、トラック上での駆け引きを行わず、3着になった原因とも考えられる。

「自分はレース中、決して後ろを振り向かないから、ヒートリーが、こんなにぴったりついているとは少しも知らなかった。」「出典 長距離ランナーの遺書」(敗れざる者たち 収録)

レース中に決して後ろを見ないとは、マラソン選手としてはかなりのハンデだが、幸吉のマラソンの中に父親の教育が強く影響していることを表す一例である。

高校は、地元の須賀川高校に入学した。高校2年あたりから自ら機会を求めて走り始めた。長距離ランナーとしてのトレーニングを積んでいたが、目立った成績を当初はあげていなかった。3年になってやっと東北大会の5000メートルで6位になり、辛うじてインターハイの出場権を得た。インターハイでは、目立った結果は残せなかった。高校時代の円谷それぐらいの長距離ランナーであった。

昭和34年、幸吉は自衛隊(郡山駐屯地の特科)に入隊した。郡山駐屯地で幸吉は斎藤勲司と出会う。当時、斎藤は訓練の余暇として野球を選んでいた。野球の練習から斎藤が兵舎に帰ってくると、初々しい少年が縄跳びをしていた。斎藤はその少年に何をしているのかを尋ねた。少年は、長距離走のトレーニングをしていると答えた。続けてその少年は、自分は長距離走をしたいのだが、この部隊には陸上部もないし、一緒に走る人もいないので1人で練習していると答えた。斎藤勲司はその少年にこう言った。

「それじゃ、今日は自分が一緒に走ってあげよう」「出典 長距離ランナーの遺書」(敗れざる者たち 収録)

それから1週間、少年と斎藤は一緒に走った。斎藤は、この少年のために陸上部を作ってやるべきではないかと思い始める。斎藤は野球部を休部し、斎藤は少年と2人だけで、郡山の自衛隊に陸上部を作った。少年とは、円谷幸吉である。毎日、20キロ以上2人は走った。2人とも走るのが好きだった。何より、楽しかった。円谷の短い生涯の中で、たった一度だけの「牧歌」の時代であったと「長距離ランナーの遺書」の著者である沢木耕太郎は書いている。

練習を重ねた結果、2人は数々の大会で好成績を残すようになる。好成績を残すようになった結果、この2人に自衛隊体育学校からお声がかかった。しかし、2人が同じ道を歩んだのはここまでだった。斎藤は自分の年齢を考え、将来を考えて、郡山に変えることを決断した。円谷だけが、自衛隊体育学校に残った。こうして円谷の牧歌の時代は終わった。

Pages: 1 2 3

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください