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赤いナポレオン ザップ将軍


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 20世紀、ベトナムは苦難の道を歩いた。フランスの占領支配、日本軍の進駐、そしてアメリカとのベトナム戦争。しかし、21世紀となった現在、ベトナムは、2015年~2017年の平均実質GDP成長率が6.5%と非常に高い経済成長を遂げている(同時期の日本の平均実質GDP成長率は1.3%)。この礎を築いた人物が2人いる。1人は、ホー・チ・ミン。フランスによる植民地支配を打破し、アメリカとのベトナム戦争を戦って今のベトナムを建国したいわゆるベトナム建国の父である。もう1人が今回紹介する人物であるヴォー・グエン・ザップ (1911-2013)。フランスとの間のインドシナ独立戦争、アメリカとの間のベトナム戦争を、その類いまれなる戦略と手腕でベトナムを勝利に導いた救国の英雄である。 

1. 独立運動との出会い

 ザップは、軍人としての教育は受けていない。彼は、地主の子に生まれ幼少期は何不自由のない生活を送っていた。教育もベトナムの国立リセに通い、インドシナ大学に進学。法学と政治・経済を学んだ。しかし、ザップはベトナムの独立運動には興味があったようで、ベトナムの民族主義者であったファンボイ=チャウの講義を聞いたり、学生運動に熱中していた。ザップが当時ベトナムのフランスからの独立を唱えていたインドシナ共産党(後のベトミン)に加入したのもこの時期である。第二次大戦下では、ホー・チ・ミンとともにフランス、日本の両国に対してベトナム独立工作を積極的に展開していた。

2. 第一次インドシナ戦争

ディエンビエンフーの戦い

 第二次世界大戦が終わり、日本軍がベトナムから引き上げてベトナムの中には独立のムードが漂っていた。しかし、ベトナムにとって事態はそう簡単には進まなかった。なんと、フランスがベトナムに軍の進駐を開始したのである。そもそもフランスは、日本軍が大戦中にベトナムを占領する前までは、フランス領インドシナという広大な植民地を東南アジアに建設していた。その植民地の権益を大戦後も手にするために再び進駐を開始したのである。しかし、ホー・チ・ミンやヴォー・グエン・ザップ側(以下、ベトミンと呼称する)もその進駐を黙って見てはいなかった。ベトミン側は、単純な兵器や火力ではフランス軍に太刀打ちできないと判断。そこで、兵力を生かしたゲリラ戦を展開することを決意する。このゲリラ戦を提案したのが他ならぬヴォー・グエン・ザップであった。彼はこれ以降の戦争で積極的にゲリラ戦を用いることとなる。ゲリラ戦の効果は絶大であった。フランス軍側は、神出鬼没のベトミンに軍の隊形を大いに乱され、ディエンビエンフーの戦いで最終的に敗北した。この際、ザップは道なきところに道を作り、山々に大砲を設置するという奇想天外な戦術を見せてフランス軍を壊滅させた。

3. ベトナム戦争 ー赤いナポレオンと呼ばれてー

 第一次インドシナ戦争に勝利したベトミンは、ベトナム民主共和国を樹立。ザップは、国防大臣などを歴任していた。しかし、ベトナムの統一はまだ実現していなかった。というのもインドシナ半島がザップたち共産主義者の手に落ちることを恐れたアメリカなどの西側諸国は、戦争の終結の条件として南ベトナムにベトナム共和国の樹立を提案してきた。ベトミンは、自分たちの兵力なども考慮に入れてこの提案を受け入れるしかなかった。こうして、ベトナムは南北に分割された。しばらくは、現在のベトナムが南北に分割されている状態が続いた。しかし、1965年アメリカはベトナム全土の共産化は東南アジアの共産化につながるという「ドミノ理論」を根拠として北ベトナム攻撃を決意、1964年のトンキン湾事件を口実に1965年に北爆を開始し、全面的な戦争に突入した。アメリカの圧倒的な兵力と物量を前にしたザップたちは、ゲリラ戦を選択。明確な戦線を設定せず、部下の兵士たちを民間人と区別させなくすることでアメリカの兵士たちを精神的に消耗させていった。西側がザップの戦略性に度肝を抜かれた事件としては、テト攻勢が有名であろう。ベトナムでは旧正月のことをテトという。南ベトナムの兵士やアメリカ軍の兵士たちは、旧正月の休暇を取っていた。そんな最中、北ベトナム側の兵士は南ベトナムの主要拠点で一斉に蜂起。首都サイゴンでは、アメリカ大使館を占拠するなど世界を驚かせた。また、このテト攻勢はリアルタイムで戦地の状況が民間人に伝えられる例としては史上初であった。ザップの目論見としては、リアルタイムの戦争の映像をアメリカのお茶の間に届けることによって、アメリカの反戦ムードを高めてアメリカ軍の兵士の士気を下げようとするものであった。結果は、大成功。その後、世界各地でベトナムの反戦運動が繰り広げられた。西側のメディアは、このような戦略を用いるザップを赤いナポレオンと呼んだ。周知の通り、ベトナム戦争はその後の反戦運動や米軍の軍事費の増大などにより1975年の南ベトナムの首都、サイゴンの陥落によって北ベトナムの勝利で終わった。ベトナムの統一は達成された。ザップの天才的な戦略は、アメリカさえ打ち破ってしまった。

4. ザップという人物

 

  • 正式な軍事教育は受けておらず、前述のように教師時代に読んだ孫子ナポレオンロレンスなどの書物や、ゲリラ闘争を通じて独学で軍事知識を身に着けた。そのことから自らを「独学の将軍」と呼び、「藪の軍事学校に通った」と語っていた[50]
  • 趣味は音楽と読書であった。音楽はベートーベンリストを愛聴し、本は西洋文学を耽読していた。また、自身もピアノを演奏していた。これを習い始めたのは、ベトナム戦争が本格化する直前の63年からで、多忙にもかかわらず練習を一度も休まず、2年後には『エリーゼのために』を弾きこなすまでに上達したという。
  • 生前、長寿の秘訣について尋ねられたところ「毎日運動を欠かさず、細かいことでくよくよしないこと」と答えている。
  • 情熱的でありながら強い自制心をもつ人柄を評して、友人らから「雪をいただく火山」と渾名をつけられていた。ザップはその生涯において、亡命中に妻を獄死させたフランスへの激しい敵愾心を消すことはできなかったが、政権樹立後の外交では極力それを抑えて振る舞った。フランスのピエール・メスメル首相から、自らが第一次インドシナ戦争に参加して捕虜となった経緯を引き合いにだされ、「お互い様ゆえ、憎しみを捨てよう」と笑顔を向けられた際は、頷きを返しつつも怒りに震える手を必死に抑えていたと伝えられている。(wikipediaより転載)
  • 著書に「人民の戦争・人民の軍隊」がある。

参考記事

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%83%E3%83%97

https://www.digima-japan.com/knowhow/vietnam/12388.php

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